2012年10月16日火曜日

災害の傷跡・・・

2006年5月27日朝5:57 中部ジャワで地震がありました。
現在私が生活するイモギリはその地震の中心地バントゥール県にあります。
現在支援に行っているジェティス第一中学校もそのひとつ。

ジェティス第一中学校は,この震災の後,台湾からの支援を受けて,別の場所へと移築されました。

先日,この移築前の校舎を訪ねる機会がありました。


敷地内全景はこのような感じ。

遠めからの写真では被害の様子があまり分かりませんが。。。
 
校舎内は,あの日からのそのまま。天井が崩れ落ち,壁を横断する激しい亀裂。
 
これは,Aulaと呼ばれる,講堂のようなところ。

全体が崩れ落ちたわけではないとのことで,インドネシア政府が簡易に補修を行い,震災後もこの場所が使われていたそうです。

外壁には,亀裂をセメントで埋めただけの補修の様子が伺えます。
近づいてみると,この講堂の突き出している部分の天井は,抜け落ちたままの状態でした。

つくりが簡素であることも分かります。

補修して再利用するけれども,本当に必要なところのみ補修するということなのです。
一般的にインドネシアの家には天井はありません。見上げると瓦の裏側が見える状態です。
ですから,ここの補修はさして重要ではなかったのでしょう。
この講堂は,今もなお利用されているのだそうです。

講堂の中も天井は抜け落ちていますが,インドネシアの伝統楽器ガムランのセットがおいてありました。
この旧ジェティス第一中学校に隣接する小学校が,この場所を使っているのだそうです。

日本では,見ることがない光景ではないでしょうか。
災害の傷跡とともに普段の生活を送るインドネシア。

日本では,被害にあった建物を残すことに対して賛否が分かれていますが,ここではその議論はありません。
この現状を,経済そして考え方の違いからのものだと,ここで1年現地の人と共に生活してきたから,私はなんとなくそれが理解できました。
学校の裏側にあったモスクは崩れ落ちてなくなってしまったそうです。

写真の左に残る建物の跡がそれです。
地震があった時間は始業前ということもあり,学校には1人の生徒だけが来ていたそうです。
その生徒は校内中央にある広場で1人泣いていたそうです。
 
地震後,この学校は広場にテントを張って学校が再開されたそうです。
その間,インドネシア政府による被害のひどすぎない校舎だけが補修工事を受けていたとのこと。
後に,台湾からの支援によって,学校全体が別の場所へ完全移築されることとなり,災害からおよそ1年半後に現在の新校舎での学校生活がスタートしたそうです。
 
途上国のインドネシア。
お金の使い方,生活の考え方は,日本とは全く違います。
未来のためと分かっていても,今支払うお金がないから,今の生活の分だけ払うしかありません。
だから,校舎の修復もそのようだったと私は感じました。
日本にある耐震性,損壊基準,そういった「未来」へ対するものへの投資ができるかどうかは,やはり経済の状況によって違うのだと,この様子を見ても実感しました。
 
日本のやり方,考え方が全て正しいとは限らないこと,日本の常識が世界では非常識であることもここで暮らして痛感しました。
その国に生きる人々は,それぞれで価値観も考え方も異なるのです。
日本のものを押し付けたところで,その国の人々が満足できるかといったらそうではありません。
長い年月でできあがってきた様々なその国の文化と考え方。
それを尊重しながら,未来を見ることを知っている私たちが,まだ未来を想像できない彼らに伝えることはとても難しいことです。
人が何を豊かと感じるか。それは,十人十色。
インドネシアでも,田舎でもインターネットが普及してきていて,少しずつ外国の情報を簡単に得ることができるようになってきました。
ですが,その情報をどういう風に活用するのか。その方法はまだまだ模索中です。
少しずつ海外に出る機会を得ているインドネシア人が増えてきました。
彼らを通して,海外に出ることができない人々が身近に海外を知ることができるようになったとき,そこからこの国の変化は起こるのだと思います。
 
そんな歴史が変化していく途中の道にいる私。
本当に貴重な体験をさせてもらっているのだと感じています。
 
 
 

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